国枝のおじちゃん

僕が自分の人生を振り返るうえで、なくてはならない存在が「国枝さん一家」。

両親が二人とも一人っ子で親戚のいない僕にとって唯一の親戚のような存在です。

僕が生まれてから9年間住み続いた4階建てのマンション。(僕が生まれる前から住んでいたので、姉と両親的には10年以上住んでた。)当時、我が家は父の仕事場と家用に2部屋を借りていました。仕事場は3階、家用は4階。

その4階の隣人が国枝さん一家でした。

ご長男とおじさん、おばさんの3人家族。

僕はよく、国枝さんちに遊びに行ったり唐揚げを御馳走になりに行ってはは可愛がられたり、叱られたりしていました。

今回はそんな、僕を温かく育ててくれた第2の家族、国枝さん一家のおじちゃんにフォーカスを当てて紹介します。


【おじちゃんの簡単なプロフィール】

・現在73歳の元ドラマー

・趣味は釣り。最近はやらなくなっちゃったけど、昔はよく成田の方まで行ってたらしい

・旧平和小学校(現在の西武区民事務所)の第1期卒業生

・73年間要町周辺に住み続けてる

・相撲、プロレス、囲碁、将棋が好き

・夏場、4階の階段まではパンツ一枚で出歩いてた
(その昔、姉貴と姉の友達がそこに遭遇して姉の友達が驚いたこともあった。姉貴はゲラゲラ笑ってた)

・ヒゲがトレードマーク

・マンションの4階でアヒルを飼ってた。その後、猫も飼ってた

・ご長男はリコーダー奏者(今は退団していますが、一時期は「東京リコーダーオーケストラ」という楽団に所属していました。)

・おばちゃんは料理本を出している出版社の編集者(めちゃくち料理が上手い!僕が世界で一番好きなのがおばちゃんの作った唐揚げ。)


おじちゃんには僕が住んでいたマンションの近く、フラワー公園近辺の昔の様子を教えてもらった。

現在のフラワー公園があるところは、元々は田んぼで、すぐ前の通りは千川の弁天さまの祀られている粟島神社の辺りまで流れるドブ川だったらしい。

おじちゃんが小学生の時は、よく竹棒を持って棒高跳びなんかをしてみんなで遊んでた。

小学生の頃は、現在の要小学校の近所に住んでいた。小学校6年の年に、子どもの増加に伴って一部の学区に住んでいた生徒が転校。平和小学校が誕生し、第1期生として卒業する。(平和小学校は僕が小学3年生とのときに廃校。翌年、要町小学校と統合して要小学校になります。生徒たちはほとんどが要に転校してきました。)

中学になると住まいを高松へ。この頃、おばちゃんと出会います。

スポーツが好きだったので、野球やハンドボールをはじめ色々な部活動に挑戦するも、飽きっぽかったためどれも長続きせず。

高校は小石川高校の夜間部に入学しました。

おじちゃんにとっての転機は19歳の頃。当時興味があったドラムを、浅草にあったスクールに通い、基礎を学ぶと、渋谷のキャバレーでバックバンドとして働きはじめます。

本人はJAZZがやりたかったらしいけれど、それでは店側が満足しなかったらしく、お客さんの踊りやすいポップスを演奏することに。

そこから、お店を転々としながらバンドマンとして働く毎日。自分で機材を持って、タクシーを拾おうにも楽器は大きいため嫌がる運転手だらけ。当時のバンドマンも移動は大変だったようです。(現在でも、高速バスなど一部の乗り物は嫌がられる傾向があります。)

そんな生活も44歳で終わりを迎えます。世間にはカラオケが広まり、飲み屋で演奏をするミュージシャンが必要なくなったのです。

時代の変化から、職がなくなってしまいましたが、魚好きが興じて築地で働きはじめました。

それからは、3時に家を出て夕方に帰ってくる毎日。僕の知っているおじちゃんはこの辺りからなんですね。

おじちゃんに今と昔の一番の違いを聞くと、「緑が減ったなぁ」と答えました。

最近はマンションはじめ建物が増えてしまったこの町。人が増え、たくさんの人が住んでくれるのは嬉しいですが、古くから住んでいる人にとっては少し寂しい気もするかもしれませんね。

おじちゃんの話を聞いていたら、なんだかリアルタイムで歴史が動いているようでした。

(カラオケのくだりとか特に。)

何年も会ってなかったから、歳取ったおじちゃんと話していたら少し涙腺が緩んで来たのでした。

管理会社の努力で綺麗にはなったけれど、段差のある階段も、4階から見る夕暮れもあの頃のままでした。

天気がいい朝は、ここから富士山も見えるんですよ。人が住んでるマンションだから、オススメスポットとして紹介はできませんが。。。

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