池袋モンパルナスについて
要町を紹介していくにあたって
この町の歴史をお伝えしたいと思います。
この町に根付く文化で一番重要なものは
「池袋モンパルナス」でしょう。
「池袋モンパルナス」とは一言で言うと、
1930年代に千川・要町・池袋界隈で生まれた、芸術文化活動のことです。
池袋モンパルナスの名前の由来
池袋モンパルナスという言葉を使い始めたのは
さきほどの詩を詠んだ、詩人の小熊秀雄です。
当時千川・要町・池袋界隈には
アトリエ付きの貸家が立ち並び“アトリエ村”という集落が乱立していました。
そこでは若い芸術家たちが制作に励み、
夜になると池袋の酒場に繰り出し語り合っていました。
画家、彫刻家、詩人、音楽家、俳優など
分野や流派を超えた交流があったと言います。
そんなこの時代の千川・要町・池袋界隈の様子を
芸術の中心地であったパリのモンパルナスになぞらえて
「池袋モンパルナス」と呼び始めました。
アトリエ村ができるまでの要町
アトリエ村が誕生する前の千川・要町・池袋界隈一帯は
農地として使われていました。
要町駅を中心に放射線状に伸びる道
(この道のおかげで平衡感覚を失い、みな迷います)
は当時農場用水が流れる川だったという話を聞いたこともあります。
この街に人が移住し始めたきっかけは1923年。
関東大震災です。
この震災で発生した火災により東京の都心部は焼けてしまい
被災した人たちは東京の郊外へと移住しました。
被害の軽かった千川・要町・池袋界隈にもその時に多くの人が移住したと言います。
アトリエ村のはじまり
詩人が芸術文化の礎を築き、おばあちゃんがアトリエ村に育てました!
アトリエ村は「培風寮(ばいいふうりょう)」という下宿屋が
今の要町駅近くの高台にできたことから始まったと言われています。
詩人の花岡謙二(はなおかけんじ)がオーナーを務めたこの下宿屋は
後々芸術家たちが集まるアパートに変わっていきました。
その後、奈良慶(ならけい)というおばあさんが
絵の好きな孫のために培風寮の近くにアトリエを建てました。
孫がよろこぶので、おばあさんはその近くに
アトリエ付きの貸家を10軒建てました。
若い芸術家たちにとって
自分のアトリエを持てるのは夢のようなこと。
そのアトリエ付きの貸家は人気で、
奈良慶の他にもアトリエ付きの貸家を建てる人が続きました。
この要町駅周辺の高台は、すずめが丘と呼ばれていたので
この一帯のアトリエ付き貸家群を「すずめが丘アトリエ村」と呼ぶようになりました。
その後椎名町駅の北側に「さくらが丘パルテノン」が生まれました。
アトリエ付きの貸家が60〜70軒も並ぶ、大きなアトリエ村でした。
その他にも千早長に「つつじが丘アトリエ村」が、
板橋区南町に「みどりが丘アトリエ村」「ひかりが丘アトリエ村」ができました。
池袋モンパルナスはこのようなアトリエ村に住む
若い画学生や芸術家たちにより育まれた芸術文化なのです。
アトリエ村の終わり
アトリエ村を終わらせたのは「戦争」です。
アトリエ村の住民たちの多くは若い画学生。
当時の若者は、どんどん戦争に送られていきました。
昭和20年の平均寿命は男性が23.5歳、女性32.0歳とも言われています。
アトリエ村の小さな画廊・ギャラリーいがらしのまとめた
『池袋モンパルナス物語』の中の年表を見ると、
「昭和20年 疎開するもの多く、画家村の風情薄れる。空襲で長崎アトリエ村を残して池袋モンパルナス廃墟と化す」
と記されています。
アトリエ村はこのようにして終わったのです。
アトリエ村の新しいはじまり
さて、当時の面影を残すアトリエ付きの貸家は戦争で焼けてしまい、
ほとんど残っておりませんが、1軒だけ今も残る家があります。
その家の主は西田宏道(にしだひろじ)。
セツモードセミナーで長年事務員を務めていた人物で、
画壇に名前が挙がることはなかったものの93歳で没する2012年まで、
70年以上もここに一人で暮らし、絵を描いていました。
現在その家は、民間の手によって、
当時の趣を残したまま修繕されることが決まっています。
また、この町から新たな文化が生まれそだって行くのでしょうか。
その日が楽しみでなりません。
外観
内観
北側に大きな天窓が空いているのが特長です。南向きの窓ですと、刻々と光の向きが変わってしまい、絵を描くには向きません。自然光が安定してはいる北側に大きな窓が開いているのが、アトリエ付き住居の特長のひとつです。
広いアトリエと小さな居室。これがアトリエ付き住居の基本的な間取りです。
和室の隣には小さなキッチンも付いています。
卒業証書をよく見ると、大学の卒業月が12月になっていますが、これは第二次世界大戦中の学徒出陣の影響です。戦争が長引き、兵力不足が顕著になっている中、1941年(昭和16年)10月、国は大学・専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定めました。同年の卒業生を対象に、12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌1942年(昭和17年)2月に入隊させたのです。西田さんはちょうどその年度に卒業を控えていたので、12月卒業となっているのです。
photo by Akihide Mishima
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